下原三丁目

髪紐一本分の愛

 部屋に積み上がった遠征土産を始末しろと言われて、早七日。
「やっと最後の一つだ」
 些か草臥れたように言って、一文字則宗は菓子を口に放り込んだ。向かいで大般若長光が苦笑しながらそれを眺めている。鶴丸や南海らが真似して困るからと処分を命じられた、方々で求めてきた珍奇な味の品々の、漸く最後の一つが片付けられようとしていた。
 噛んだ途端に甘草が強く香るそれは、初めて口にした時は確か甘い蚯蚓だと言い放った気がする。今でも実際そう思う。
 分け与えた中には割と好きだと述べる刀もいたので、好む者は好む味なのだろう。だがそれは好まない者は好まないという事実の単なる裏返しで、則宗は断然後者の側であった。好奇心は猫をも殺すと言い放ってくれた刀は、さて誰だったろうか。
「お疲れさん。口直しに食べな」
 最低限の咀嚼で蚯蚓を飲み込んだところで、目の前に飴が差し出される。色彩鮮やかな紙に包まれたそれは、きっと果実の味がするのだろう。中から現れた、つるりと赤い球形が、まるで差し出し主の眼のようだと束の間考えた。
 軽く礼を言って口に放り込む。甘い。先程までとは全く違う、則宗のよく知る甘味だ。人工物質で組み上げられた不自然なものだが、甘草の蚯蚓よりは遥かに則宗の舌に合っている。
 頬が緩んだのを見たらしく、良かったなァと間延びした声が食卓の向かいから飛んできた。大般若長光とは常時こんな調子の刀である。声を荒げることも、激情を露わにすることも殆どない。
 ただゆるゆると微笑って、則宗の頭を撫でる。子供か小動物でも扱うようなその態度を心地良いと感じるようになったのは、もうしばらくも前のことだ。
 こいつがあんまり僕を猫のように扱うから、僕も『ねこ』のようになっちまったんじゃなかろうか。大きな手にすりすりと頭を擦り付けながら、則宗は考える。長光の手は心地良い。則宗を愛してくれる手だ。
 心地よく思う反面、時折裏からどうしようもない飢餓のような衝動が襲い来る。足りないと言っているのか、嫌だと言っているのか。自分の心であるのに判別もつかない。こういう時則宗は、そのどちらにも対応し得る行動を取る。度々あることなので、長光も今更そう驚きはしないだろう。
「ああ、良かったとも。お前さんにも少し分けてやろう」
 努めて露悪的な笑みを浮かべ、身を乗り出して間合いを詰める。その首に腕を絡め、唇を合わせると、予想通りさしたる驚きもなく受け入れられた。
 幾度も交わされる口付け、離れる度に互いの間に苺の香料が漂う。不釣り合いな芳香に長光が笑っているらしいのが気配で分かった。口を開けと吐息で促し、僅かに開いた隙間から舌と共に飴玉を先方の口内に押し込む。奪い合うようにして味わい合う。時折舌に転がされた飴玉が歯に当たって軽い音を立てた。
 未だ収まりきらない飢餓を源に、滲むように熱が上がって来る。これは予感だ。厄災のような熱が、則宗自身の内からひたひたと競り上がって来ている。間もなくこれに浮かされて、流されて、満たされないままでは呼吸もできなくなるのだろう。
 容態は判らなくとも正体は解っている。そうとも、これは熱だ。そして情だ。理解していても抑え難く抗い難い、則宗自身の情欲だ。あってもただただ息苦しいが、なければ最早己たり得ぬ。そんな傍迷惑なそれを、則宗は暫定的に愛と呼んでいる。
 温かい口付けに瞼を閉じ、感じ入る風をして、ちらと後目を泳がせる。開きかけていた障子が閉じる。机上に置き放された食器を後ろ手で掴み、閉じ切らない隙間に目掛けて投げ込むと、鈍い悲鳴とこのクソジジイという罵声が続け様に響いた。
「出歯亀なんぞしてるからだ、坊主ども」
 くつくつと笑う則宗の膚の上に、長光の呆れた声が降って来る。
「あんた、見られるの嫌がるなあ」
「うはははは、お前さん以外に見せてやるなんて勿体ないじゃないか」
「おっ、独占欲ってやつかい?」
「金一万両の刀だぞ? 易々と見ようなんざ虫が良すぎる」
「流石の貫禄だ。六百ぽっちの俺は身が竦んでしまうな」
「お前さんだって十分立派じゃないか、国宝殿」
 軽口を叩き合いながら眼を覗き込む。赤い、赫い瞳。それが真っ直ぐ則宗に向けられている。熱いと感じるようになったのはいつからだろう。愛が、沸き立つ感触がする。
「この本丸結構いるからなあ、国宝」
 長光は則宗の髪を優しく撫でている。則宗と同じような熱を感じているかは分からない。
 則宗自身も大概—―若い面々にクソジジイと呼ばれるくらいには――放縦な自覚はあるが、大般若長光のそれはまた方向性が違う。飄々というより泰然というより、自然の刀である。常に己のありたいようにそこにある、ゆく川の流れのような刀だ。
 長光がこんな刀だから、傍にいる則宗も自然と緩いクソジジイになるのか、もしくはその逆なのか、あるいは単に似た者同士というだけなのか。
 ともあれ則宗は、そんなこの刀を愛している。この刀もまた、己を愛しているという。
 事実としては、それで十分だ。あくまでも事実としては。
 熱が上がっている。
「国宝でも畑当番はさせられるし」
「まあそれはそうなんだが。……睦言に正論を垂れるのも不粋だろう」
「そりゃ確かに」
 微笑って大般若長光は、少しばかり目を細めた。
「苺以外も、食べるかい」
 頷くまでに思考は要らなかった。言葉を吟味するよりも即応する粋を、則宗は選んだ。
 もう一度気配だけを背後に回し、開いたままの障子に視認防止の結界を張る。また悲鳴が聞こえた気がするが、今度こそ気にしない。
 お前さんは僕の鎖だ。誰に見せてやるものか。
 あんたはいつも猫みたいにふてぶてしくしてるのがいいと、愛するこの刀が言ったのだ。ならば則宗は、それに応じてやるだけだ。
 再度顔を近付けて唇をねだる。望むまま与えてくれながら、長光がゆるゆると背を撫でている。体内に生じた熱をかき混ぜられる心地がした。
 どうして欲しい、と吐息の隙間から長光が尋ねる。お前さんの好きなように、と同じく答える。
「と言われてもなあ」
 釦を外す長光の声は長閑やかだ。
「そう言っていつも俺が好き勝手してしまってるんだ。たまには我儘言ってくれてもいいんだがな」
 愛する刀に求められている。応えなければ、と魂が疼く。
「だがなあ、僕はお前さんに求められるのが……っ」
 か、と喉が鳴る。絞められたように呼吸が止まる。空しい咳を繰り返す則宗の背を、抱きしめたままの腕が優しく撫でた。優しいが、慌てているのか先刻より僅かに[[rb:忙> せわ]]しい。
 毎度の事ながら忌々しい。飲み込んだ嘔吐きごと奥歯を噛み締める。
 一文字則宗という刀剣男士は、一文字則宗が打った刀に、一文字則宗が愛された物語を組み込むことで生まれた。則宗にとって愛されることは存在の一部であり、魂の一片にまで染みついた呪いでもある。愛されることで成り立つ心身は、それ故に、自らが他を愛することを容易には許さない。本丸に来た頃よりは幾分ましになってはいるが、それでも好意を口にしようとすればこの有様だ。
 好きだという言葉一つにここまで難儀するなんて、誰の仕業かは知らないが、全く余計なことをしてくれた。顔を顰め苦痛に喘ぎながら、それでも則宗は愛することを止めない。
 だって向こうばかりじゃあ、悔しいじゃないか。こちらを慮る声からも撫でる指からも、溢れて浸み込んでくるものが分かるのに。この心は確かに、能動的な返答をしたいと訴えてやまないのに。
 何よりこの刀が折角僕を愛してくれているというのに、それに碌すっぽ応えられないなんて、一文字の名が廃るというものだ。
 見ていろ、と何処の誰でもない仕掛け主に向けて呟く。
 見ていろ。一文字を刻んだ刀が、真一文字に思いを遂げるぞ。
 大丈夫だという代わりに、撫で続ける指に舌を這わせる。少し乾いた塩の味だ。唾液を含ませるようにしゃぶっていると、滑りの良くなった指が則宗の舌を挟み掴んだ。
 動きの止まった首筋に歯を立てられる。急な強い感触に身体が跳ねる。一気に熱の上がった耳朶に、どうした続けないのかい、という煽りが吹き込まれた。
 まったく自然に意地悪な刀だ。もう則宗の身体のことなんて則宗よりも解っている癖に。則宗の身体は則宗のものだと言わんばかりに、いつもこうして則宗自身に能動を迫る。助けられていることは多々あれど、こういう時にはただ焦れったいだけだ。
 詰る代わりに腰を、もう散々に熱の溜まっているそれを、長光の腿へ押し付ける。ああ、と心得た声がして、舌が解放された。そろそろ足元が覚束ないだろうと察知されてか、抱き上げられて寝台へ移動する。緩められた下袴の隙間から、疼く肚の内を目掛けて、欲していたものが緩慢に這い上がってくる。
 はやく、はやく、気ばかりが焦って肚の中で空回りしている。相変わらずどこまでも優しく慇懃な態度が恨めしい。水晶色の瞳はもう、目の前の愛しい刀しか見えやしない。擦り寄って、口付けて、猫のような声で啼いて。
 いて、という呟きが届いて、則宗は初めて、自身が長光の髪を握りしめていたことに気が付いた。握りしめるどころか、引っこ抜きそうなほどに力を込めている。すまん、と小さく詫びて手を離した。既に身体が理性の制御下を離れつつあったらしい。この時点からこれでは、先の行為、己の腕指などとても信用ならない。
 少し考えて、則宗はその手を揃えて頭上に持ち上げた。
「押さえておいてくれないか」
 僕はお前さんに好きにされたいんだ。傷付けたい訳じゃない。だから。
 束の間、長光の動きが止まった。どうした、水晶の眼が訝しむ。しばし俯いて持ち上がった白皙の顔は、確かに熱に上気していた。瞬いた赫い眼が血脂のようなぎらつきを帯びる。
 深く息を吐いた長光が、括っていた髪を解く。銀の髪が月光のように白い肌に、覆い被さって則宗の上に零れる。その隙間から髪紐を引き抜いて、長光は則宗の両手首をまとめて結わえた。
「…………あ、」
「悪いな。片手だけじゃ、あんたを十分に可愛がってやれそうにないんだ」
 きゅう、とまた締め付けられる心地がする。今度は喉などではなく心臓だ。酔い痴れるほどの愛が齎す甘やかな痛みだ。ああ、そんなに。そんなにか。そんなにもか! 僕の言葉一つでそれほどにも煽られてくれるのか! それほどまでに、僕に愛されてくれるのか!
 残っていた理性が歓喜に消し飛ばされて、それ以上は何も考えられなかった。ただ逃がすまいと脚を絡め、肚に押し入ってくるものを存分に味わった。白い項に顔を埋め、活きた汗の匂いを嗅いだ。
 ごり、と奥の奥が抉られる感触。ああ、だめ、だめだ。嫌な訳はないのに、必死に首を振って拒絶する。だって僕のからだはきっとその情熱に、耐えられない。耐えられないと言っているのにそのからだは裏腹に、熱の源にしがみついて離れない。まるで焼かれることを望んでいるかのように。
 大丈夫死にやしない、と、低い声が言った。注がれる白湯のように温い声だった。あんたはただ、そうして蕩けていればいいんだよ。蕩ける。蕩けてしまうのか、僕は。目の前のこの刀に蕩かされて。認識すると則宗の身体はその通り蕩け出した。四肢からは力が抜け、腹の内は火照り、頭からは理性と思考が流れ出していく。ああ、可愛いなあ。俺のものだ。俺だけの手の中で鳴く小鳥だ。やめてくれ、と声にならない声で縋った。これ以上は本当に溶けてしまう。溶けて、どろどろになって、こころもからだもぜんぶ、鋼とも魂ともつかない何かになって。そうして?と長光が聞く。意地悪な奴め、知っている癖に。憎まれ口を返す舌さえ、もう残っていない。そうしてーーそうして、お前さんの望むように打ち直されるのさ。ああ、それはきっと、僕には堪らない幸福だろうとも。
 四肢の感覚さえも溶けて遠く、遠くなってゆく。多分失神するのだろうと思った。目が覚めたらきっと指一本動かすのも億劫なほど疲れ切っているに違いない。
 そして律儀なこの刀はきちんと全ての始末をつけて、美味い朝飯を用意して、則宗が起きるなり全力で謝って、それから甲斐甲斐しく飯を食わせてくれるのだ。それはまったく—―最高とは言い難いにしても――全く悪くない。
 何しろ僕は、彼を愛しているのだから。
 自分にしか分からぬ程度に微笑んで、一文字則宗は意識を手放した。

この御前の設定はフォロワーさんが考えててエモかったので貰ってきたやつです。