下原三丁目

牛乳とハッピーエンド

 短い付き合いである所為か、彼の御仁の考えることは今一つ良く分からない。かと言って付き合いが浅いならばそもそもこんな事態にはなっていないような気がするので、案外世界か彼自身が理不尽であるだけなのかも知れない。
「……………………」
 空間に沈黙が落ちている。
 古びた寮の古びた部屋、古びた寝台の上でこれまた古びた布団を頭から被って丸くなっているのは、茨の谷の次期国王、妖精達の偉大な長となる君である。端的に他所の寮の寮長と言い換えても良い。
 彼が来訪するなりこの体勢になって早半刻が経とうとしている。動く気配は、今の所ない。
 監督生は上着の襟を防寒具代わりに握り締めながら溜息を吐いた。温かな寝床から放り出されて半刻、この季節この時刻では中々に冷える。洗うが如き赤貧寮に代わりの寝具などは勿論ない。些少の保温源もとい毛皮を持つ同居人は寒いと一言言い捨てて、まだ暖炉の点いている建物へ出て行ってしまった。今頃は他所の談話室で紅茶でも飲みながらよろしくやっているに違いない。
 安眠と健康の為には彼に寝台を共有ないし明け渡して貰わねばならないが、さてどうしたものか。単なる力押しでは到底敵わないので、動かすにはそれなりの搦め手が必要となる。
 幸いにして彼がこういった状態になることは初めてではない。宥める為の方策には幾らか心当たりがあった。
「ツノ太郎」
 呼び慣れた渾名で彼を呼ぶ。少し前までは呼ぶ度むずかるように身じろぎしていたのだが、今は何の反応もない。聞き飽きたと言わんばかりである。
「ちょっと向こうに行ってるから」
 言い置いて椅子から立ち上がる。部屋の主が部屋から消えれば何かしらあるだろうと見越しての行動だ。案の定、扉を開ける背後でごそごそと布団の動く音が聞こえたが、態と振り返らず部屋を後にした。
 向かった先は台所である。身体が冷え切っているので、今は少しでも熱を補いたい。裸足に木の床の温度が猶更沁みた。
 小鍋を取り出し、残っていた牛乳を注いで火にかける。空になった大瓶は洗っておきたいところだが、今はこれ以上冷たいものに触りたくはない。このくらいは明日でも良いだろうと、ひとまず蛇口の脇に置く。金属と硝子の触れ合う音に掻き消されるように、僅かに床の軋む気配がした。
 湯気が出始めた辺りで蜂蜜を一匙。砂糖でも構わないが、多少の贅沢は必要経費だ。耳元を掠める吐息に気付かないふりをして戸棚を開ける。紫と緑、色違いで揃いの柄の食器達は、先日売店で求めたばかりだった。そういえばこれが使い初めになるのではないだろうかとぼんやり考えながら鍋の中身を注ぐ。
 紫色の方を持って長椅子に腰掛ける。緑色の方は態とその場に置き放しておいた。
 背後から窺っていた彼に気付かない素振りで中身を一口啜る。仄かな甘みと温度が喉に落ちていくのを感じ、深く息を吐いた。陶器越しに伝わる熱でさえ、冷え切った身体には求ましい。
 更に一口飲みながら視線を上げる。隠れ蓑を失ったまま立ち尽くした次期妖精王は、物言いたげな顔で牛乳の湯気と監督生とを交互に眺めていた。
「それはツノ太郎の分だから、飲んでいいよ」
 促すと漸く戸惑いがちに指を伸ばして持ち手を握る。
 少々異なことだが、彼は不遜であっても独善ではない。招かれない宴に入ることはなく、渡されないものを手に取ることもない。一方でそれを求めていないのかといえば答えは否で、むしろ不相応に目を輝かせて憧憬している。ただそれが自分の手に入るとは何故か考えていないらしく、此方が与えるまでは呉れとも言わない。
 他者に対する態度を知らないが、少なくとも監督生に対しては、出会った頃から終始この態度でいる。求めるそばから与えられて然るべき境遇でありながら、求めたものがその通り自身へ与えられるという認識が不思議に薄い。望みが叶えられたことに逐一驚き、良いのか、と何処か不安そうに確かめる。その様は稚く、そして斜に歪んで監督生の眼に映った。
 まるでそれが禁忌か夢想ででもあるかのようだ。
 彼は空いている長椅子の隣へ腰掛け、此方の視線を気にしているのかいないのか、少し背を丸めて湯気の立つ牛乳を見つめている。そういえば妖精とは一杯の牛乳を報酬に家事作業を手伝うものではなかったか。元の世界で読んだ児童向けの本を何となく思い出す。生憎今の彼に手伝って貰うようなことは硝子瓶を洗うくらいしかないけれど。
 ちびちびと牛乳を口に運ぶ表情はそれなりに緩んでいる。少しは御機嫌も直ったろうかと眺めていると、不意に視線が此方を向いた。細まった瞳に正面から見つめられる。未だ拗ねたような色はあったが、此方への棘があるようには感じられない。どうやら怒ってはいないようだ。
 つまり、いつものあれか。牛乳を飲み干しながら、視線は外さず彼を見つめ続ける。
 長らく同一の姿勢であったためか、黒と若草の寮服には緩く皺が刻まれている。髪も少し跳ねているようだ。自寮に戻れば、彼が何も言わずとも側近が身嗜みを整え、寝衣を提供し、乱れた衣服を直すだろう。或いはこの場で指摘すれば、彼自身が指一本動かさず瞬く間に。
 しばらくそうしていると、眼光はやがて歪み崩れて、泣き出す寸前の幼子のようなそれに変わっていった。
 涙は流れない。幼子でもあるまいし、と当然のように言われたのはつい先日のことだ。
「何があったの」
 問うても黙って首を振る。言いたくないのか、言っても詮ないことなのか、もしくはそもそも原因など存在しないのか。彼は時折、発作的に此処へ来る。一言も話さず耳も貸さず、寝台で布団を被って丸くなる。感情が抑えられなくなるのだと言っていた。抑えるべきものを抑えられるようになるまで、彼はあの襤褸い布団の檻に自ら閉じこもっているのだ。
 その行為が不毛であることは、彼自身重々承知している。けれど湧き出る衝動を抑えるには抱えた感情は余りに重く、求めるべき救いは他の何処にも持ち合わせない。自寮の整えられた柔らかい寝台でさえ、彼を大人しく縮こまらせていてはくれないのだろう。世話焼きで騒がしい側近達の顔を思い出す。
 此処は彼の唯一の逃げ場である。外界を隔つ檻であり、喉を潤す泉であり、初めて開く絵本であり、息を呑む夜明けである。彼は此処でのみ全ての肩書きを逃れ、ただ一人の悩める学徒たり得る。
 理由は、過去の彼の言動を鑑みるに、恐らく。
「ツノ太郎」
 同じ問いを重ねる代わりに、監督生は自身の片腕を彼の君へ回した。まずは様子を窺うように膝元へ。次いで背へ。抱き寄せるように肩へ。そして首元へ。彼は抵抗もせず、此方を潤みかけた眼で見つめたまま、大人しく撫でられている。瞼が僅かに閉じられる。指先で軽く下顎を掻いてやると、きゅるる、と喉が甘えた音で鳴いた。濡れた瞳と相俟って蕩けるかのような表情に見える。
 とうに冷めた牛乳を卓へ置いた指が、代わりに監督生の寝間着を掴む。少し力が強かった。
「何が欲しいの」
 質問を変えて、端的に。
 金碧色の瞳はまだ迷いを湛えて揺らいでいる。
「ツノ太郎」
 重ねて呼びかけると、漸くおずおずと口を開いた。
「…………口付けが、欲しい」
 禁忌に触れるような、震えた声で。
「はい」
 軽々しく叶える。ちゅ、と音を立てて額に唇を落とした。
「他には」
「……もっと」
「はい」
 今度は瞼に。
「もっとだ」
 頬に。彼が強請る度、彼の欲するものは彼に近付いていく。
「もっと」
 唇の横に。唇に。束の間触れて離れた時、彼の腕が監督生の頭を掴んで再び自らに寄せさせた。もっと、と息の間から猶も続く。
 求めに応じて、更に深く。彼の細長い舌を吸い、鋭利に尖った牙をぬるぬると舐める。呼吸のために口を離す度、唾液の混ざりあった生々しい音がする。彼はそれを、この世の甘露のように喉を鳴らして飲み込んだ。
「もっと」
 粘液に艶めく舌が強請る。
「もっと強く、激しく」
 白い指が腕に縋る。
「お前の全てを僕に刻め」
 ああ、彼は本当はこんなにも欲しているのに。


 古びた寮の古びた部屋、古びた寝台のこれまた古びた布団の上で、人と妖精とは絡み合った。
 気遣いなど要らない、傷になっても構わないという妖精の懇願を、監督生は柔らかく受け止め、そしてそれとなく横へ流した。
 知識ならともかく、恐らくこうした情交の経験などないであろう彼に、初めから痛みの記憶を植え付けたくはなかったというのが、一つめ。
 そしてもう一つ、こんな人間の指先一つの、彼なら指先一つで消しも残しもしてしまいそうな小さなものを、それでも彼が己の願いの代わりに欲するというのが、どうもこの世界では真っ直ぐすぎるように見えたから。
 この歪んだ世界で、こんなに真っ直ぐなものなんて。そう思いながら、汗で濡れた髪を掻き上げてやる。苦痛はないか、嫌悪はないか、細心の注意で見計らう。何しろ彼がここまで監督生を欲するのは初めてのことなのだ。万一不快なことがあっても、そういうものだと得心すればきっと言い出さないに決まっている。
「一度目に嫌な思いをすると、二度目がやりにくくなるから」
 尚も傷を強請る舌を指で戒めて言い訳のように告げる。僅かながら拗ねる時の形に眉が寄せられた。
「それとももしかして、二度目はない心算だったのかな」
 濡羽色の髪の向こうからは、金碧の潤んだ瞳が人間を見上げている。覗き込んでみたが、駄々と悦楽以外のものは読み取れそうにない。
「それは寂しいなあ」
 瞳が揺れた。寂しいという言葉の意味は、きっと監督生より彼の方がよく知っている。
「とても寂しいよ、ツノ太郎」
 唇が僅かに動いた。僅かすぎて言葉にはならない。そんなもの、と動いたような気がする。そんなものは当たり前、だろうか。有り得ない、かもしれない。
 もしくはやはり、禁忌の言葉か。
 聞こえないので監督生は無視をすることにした。
「だからね」
 ほら、と手を伸ばす。やはり躊躇いながら伸ばし返される手を握り、指を絡ませる。その指に口付ける。理性が残っていたのか狼狽が見える。こんな行為までしておいて、彼の中で口付けは未だ狼狽に値するものであるらしい。
 だめだ、と微かな懇願があった。次に言われる言葉を察して、監督生は手に力を入れた。
「だめ、だめだ、そんな」
 恋のようなことをしては。
 後半、唇は確かにそう動いた。しかし声にはなっていない。なっていないのを良いことに、やはり行為を続行する。だめだと言いながら指は離れない。
 少し力を込めて突き上げると、相手の喉から押し殺したような呻きが漏れる。ごめんね、思わず謝罪が口を突いて出る。刻んで欲しいと言ったのは僕だ。首を振る動作さえなく、間髪容れずにそう返って来る。笑っていた。
 慣れない行為に慣れない責めに、白い身体は哀れな程にのたうっているというのに。金碧色の眼を涙で潤ませて、彼は笑っているのだ。まるで自身が幸福の真最中にいるかのように。愛撫を禁忌と遠ざけながら、それでも。
「ツノ太郎」
 僕の全てをお前に刻むと、この優しい竜は言わなかった。言ったって構わなかった、強引にでもそれをさせるだけのあらゆる力が彼にはあった。
 けれども彼はそれをしなかった。相手である人間を慮ったのか、そもそも他人に思いの丈をぶつけるなどという大それたことができないのか。自分は因果の鎖に縛られていると、夢に見るばかりで手を伸ばすことは叶わないのだと思っているばかりに。
「ツノ太郎」
 抱き締める。彼はまだ、ただ笑っている。
 監督生はその手をとって、己の背に回させた。彼の瞳が少しだけ驚きに開かれるのを見て、監督生も笑った。
 いいんだよ、と囁きかける。彼の眉が下がった理由は推測しきれない。けれど彼自身がその内容を口にしない内は自らそれに頓着しないことを、監督生は既に心の中で決めていた。
 この哀れな妖精に何の呵責も抱かせない方法を知っている。いつも通りの彼のように、変哲のない澄ました態度で、君を抱かせて欲しいと頼みさえすればいい。
 願いを拒否する彼ではない。対価は既に渡されている。監督生が一言言うだけで、彼は救われる。罪の意識に苦しむことなく、欲するものを受け取れる。
 そうしないのは監督生のただの我儘で、彼の為などでは決してない。仮に彼の為であったとしても、或いは独りよがりに過ぎなくて、彼が真実望むところではないかもしれない。
 ただ。
 水晶のように透き通った涙がころころと彼の頬を流れていくのを眺めながら、此方に来る前に読んだ児童向けの絵本を思い出す。
 酒代に困っていた男の上着に銀貨を入れていく妖精の話。妖精を助けた心優しい少女が祝福を貰い、話す度に口から花や宝石が出るようになる物語。己が領分の茨を刈られた妖精が、怒って老人に復讐する民話。それらのただ一つとして、目の前であえかな鳴き声をあげている彼ではない。
 妖精は陽気で、綺麗好きで、気紛れで、月夜に野原で輪になって踊り、鉄と鶏の鳴き声を嫌い、時には人に悪戯することを好んで。知る限りの断片的な知識は、この捻じれた世界ではきっと役に立たない。少なくともこの美しい竜の君には。
 柔らかく伸びた爪が監督生の寝衣にかかる。加減の利かなくなった強い力で握りしめられる。それが二の腕なのは幸いなことだった。変に容赦のない体育教諭は、冬場でも半そでの運動着を着せてくる。多少の痛みは押し込める素振りでいたかったが、生憎とそんな余裕はなかったし、幸いなことに彼の方も気にする余裕を残していなかった。
 返答の代わりに、背に腕を回して抱きしめる。それよりも早く彼から身を摺り寄せてきた。額に残った鱗が僅かに皮膚を擦る。
 彼が求めているものは、本当は、月夜の野原でも一杯の牛乳でもなくて。


 長い忘我の時を終えて、漸く彼が満足そうに息を吐いた。而してその口角は上がってなどいない。
「すまない。お前には迷惑をかけてしまった」
 理性を取り戻して最初の言葉が謝罪である。彼を取り巻く禁忌が鎖の如き堅固さであるのを、改めて思い知る。
 別に、と答えて布団を手繰り寄せる。上がっていた体温が戻り始めていた。隣に触れる身体が心地好い。
「お前は人間だ」
 鎖の隙間から、消え切らない呟きが漏れる。
「僕にとっては目瞬きほどの時間を生きて、呆気なく死ぬ」
 布団が少し向こう側へ引き寄せられた。何と答えても甲斐がない気がして、監督性は無言のまま彼の声を聴いている。ただ最後まで聞くべきだと思った。終わったら先刻彼が飲み残した牛乳をまた温めて、蜂蜜を足してまた出してやろう。
 それとも新しく淹れてやった方がいいだろうか。日が昇ってからなら、売店まで歩くのも悪くない。彼は置いて行かれるのが嫌いだから、その時は二人で一緒に。戻って来た同居人に文句を言われることも考えると多めに買った方がいいだろう。
 買い物を提案したら彼はどんな反応をするだろうか。普段余り自分で店になど行かないだろうから、新鮮で面白がるかもしれない。氷菓が好きだと言っていた。自分がここへ来る前に知っていた、奇妙な氷菓の話をしよう。牛乳の味が濃い氷菓はこの世界にもある筈だ。買って帰って、火を入れた暖炉の前で二人で食べようか。
 そういうことをしてやりたい気分だ。今とても。
「分かっているのに、こんな、どうしようもない、こんな」
 耳に届くのは最早自身へ言い聞かせるための、悲鳴の如き独白であった。
 また布団を取り上げられる前に、髪を撫でて宥めにかかる。背を向けた姿勢を振り向かせるように、手を伸ばして頬に触れる。まだ少し熱い。
 ツノ太郎。反応が来ないことなど承知で、諭すように呼び掛ける。
「好きなだけ望んでも良いんだよ」
「……お前に何が分かる。何も知らない癖に」
 分からないよ、何も。撫で続けることは止めない。何も知らない癖にと繰り返す彼はぐずる子供のように見えた。知らないよ、だって君は何も話してくれていないんだから。それでも美しい肌に指を滑らせるのを止めない。彼もまた、止めて欲しいとは一度も言ったことはなかった。
「何も知らない癖に、後悔するぞ、人の子」
「お互い様でしょ」
 問答が止まる。お互いの過去など知らない。心情などまして測れやしない。二人は種族が違って、年齢が違って、育ちが違って、知識が違って、常識が違って、世界が違って。同じものなど、きっと探す方が難しい。そんなものは存在さえしないのかもしれない。
 それでも。

「それでも君はハッピーエンドを望んで良いんだよ、マレウス・ドラコニア」

この子に本物のハッピーエンドってくるんだろうか。