下原三丁目

直会以上晩酌未満

 余寒和らいだので月見酒を楽しんでいたら月のような男が来た。
「酌を致そうか」
 そう言って隣に座るので、では頼もうかと銚子を渡す。注がれた清酒の上に三つばかり月が映った。
 ただ手酌でないだけで随分と贅沢な気分になるから面白い。それともこの男の酌だからだろうか。
 ぐいと仰いだ先には酒精で潤んだ月影が見える。一応傍に干魚を炙って置いてあるが、この見目良い景色も何よりの肴だ。何かがあるだけで酒が美味いというのは有難いことだと思う。風流、という言葉の真意は知りかねるけれども。所詮ただの呑兵衛だ。
 空になったところへ三日月宗近が再び酒を注ぐ。そうしてそれを口に運ぶ己をぼんやりと眺めていた。
「美味いか、主」
 不思議そうな心地でそう問うてくる。美味いか美味くないかで言えば美味い。美味いから呑んでいるのだ。甘露。だが彼が訊いているのはそれではあるまい。
 神をも悦ばすもの。神が言祝ぐもの。その神たる一柱でありながら、刀剣であった身は未だ神酒の味を知らずにいるのだろう。
 干したばかりの猪口を手渡し、呑め、と誘う。きょとんとしているので、今度はこちらが注いでやってもう一度促した。豊神酒ぞ、霊水ぞ。干せ。いかん、大分酔っている。この男は現身の神で、しかし忠義の臣であって、うつくしきものであって。良い、今はただの酒飲み仲間だ。
 三日月宗近は目を伏せてそれを押し頂き、呑んだ。ほうと息を吐く頬に立ち上るのは紅霞。
 美味いかと問えば中々美味いと返ってきた。今一献と銚子を向ければ躊躇いなく受ける。この御酒は我が御酒ならず、酒の神、常世にいます、石立たす少名御神の、神祷ぎ寿ぎ狂ほし、豊寿ぎ寿ぎ廻し、献り来し御酒ぞ、乾さず飲せ、ささ。嗜む歌は酒楽ばかりの主君で申し訳ない限りだが、この神は柔く笑んでまた干した。
「主手ずから誉の杯とは、冥利だな」
 そう言いながら猪口をこちらへ渡し返し、また酒を注ぐ。大振りの銚子が空になるまで、二人でしばし呑んだ。月がどれほど移ったかを覚えていない。いよいよ酒が回ったか、あるいは目の前のこの男の瞳ばかりを見ていたのであろう。
 零れ落ちた最後の一滴までを、三日月宗近は実に美味そうに呑んだ。しろかねの肌が薄紅に染まっている。熱に浮かされたような眼元がなまめかしい。それをついとこちらに向け、代わりを取ってこようと告げながら、立ち上がろうとして盛大に膝をつき転けた。倒れてきた上半身を咄嗟に抱き留めると、浪間の三日月が如き瞳とかち合う。かなり酔っているな、とそれだけで判じられた。
「……足が」
 あしがうごかん、と茫然とした様子で呟く。酔ったな、と返すと、そこで初めて己の状態を悟ったようだ。
「これが酔うということか。ふわふわとして中々良い気分だが、身体が動かんのは困るな」
 猫のように胡坐の上でごろごろと転がって笑った。成程酔っている。くいくい呑むので油断していたが、余り酒には強くないようだ。しっかり醒まさせなければ明朝地獄を味わうことになるかもしれない。和らぎ水を取ってこようかと腰を浮かせ、しかし奇し三日月に阻まれた。太刀を振るう腕力でがっしりと服を掴まれている。
「なあ、主よ」
 掴んだ服をよじ登るようにして顔を近付けてくる。酒精に染まった吐息が耳元を撫でた。

酒讃めが好きすぎて定期的に出している。