下原三丁目

肉体の不具合

 ひとは恋をするものだということを知っている。生命や生物に関する知識は恐らくひとが長年蓄積してきたそれを遥かに下回るだろうが、少なくとも丁度鳥が木の枝で鳴くように、花が美しく開くように、ひとは他のひとに恋をするものだということを、三日月宗近は知っている。
 単なる生殖の為か他の意図あっての行為か、そんな根源的疑問は今更さしたる問題ではない。重要なのは三日月宗近という刀が今はひとの身体を持っていること、そしてどうやら三日月宗近のひとの身体は主君という他のひとに恋をしているらしいということだ。ある刀は三日月宗近の挙動から察して、またある刀は三日月宗近の吐露する言葉を聞いて、いずれもそれは世に聞く恋というものではあるまいかと指摘した。過去にこの感情を経験したことがあるかと問うても否定以外が返って来ない為に三日月宗近自身はこの結論に些か懐疑的であるが、尋常ならざる状態の心身に尋常以外の名を与えたことは、結果として三日月宗近に幾許かの安寧と新たなる疑念を齎している。恋であろうとなかろうと煩悶せざるを得ないのなら、それでなくとも慣れぬ器に戸惑いの多い日々、仮にでも現状を定義しておいた方が、余計な面倒を増やさずに済む。
 さて、己の現状に恋という名を与えて後、改めて三日月宗近の思う事は、やはり恋とは難儀なものであるという実感に尽きた。就中、心身が己の思うままにならぬというのがどうにももどかしい。刀の魂を持つ三日月宗近には、ただでさえ人の身は扱いかねる。与えられた肉の器の使い方に漸う慣れてきた所だというのに、その慣れを恋が横から奪い去って行く。主が傍に来る度、そうして何かをする度に、三日月宗近の身体はその思考と理性を飛び越えて、まったく勝手に様々なことをやらかしてくれた。
 まず言葉が出ない。出陣の報告をするにも舌が乾いて縺れ、繰り返し覚えた定型句さえ上手く紡ぐことが出来ない。額の奥が痺れたようになって、ものを考えることが酷く億劫になる。それだのに主がこちらへ視線を呉れると臓腑が跳ねて、脳髄に種々の感覚が充満する。嬉しい、熱い、冷たい、苦しい、悲しい、痛い、痺れて、濁って消えて、嬉しい。どうすればいい。三日月宗近はこれを解決する手段を持たない。ひとは頭の中で恋をするらしいと或る刀が言った。或る刀は生物なれば生殖器官が恋をすると言った。また或る刀は、恋をするのは肉体でなく心であると言った。どれだって構わない、その原因たる部位を定めて抉り出しさえすれば屹度この懊悩から解放される。この面倒なひとの身体は元通り三日月宗近の指揮下に戻ってくる筈なのだ。今でも勝手に腕を伸ばして、立ち去る主の背に未練がましく縋り付こうとさえする、この、身体を。
 ……まったく、難儀で堪らない。


確か連載にしようとした一話めか二話め(頓挫)。