御簾と結界
他人の為に延べる床はこんなにも重いのだと知った。
この主に仕えて早や幾年、この役を仰せつかったことは名誉に尽きるが、その役の意味するところを思うと、やはり手放しでは喜べない。
「三日月、手間をかけてすまない」
脇に座したままの主が詫びた。
我が身は刀剣、主に仕えるもの、それを厭うことなどありはしないのに。主のすまなそうな声を聞く度、腕の中で布団が石のように沈んでゆく。
叱咤するように力を込めながら、いやなに、と返す。
「これもまた主に仕えるものの務めだ」
尋常のことのように返して、三日月宗近は床を延べる。
布団が板張りの床を叩く音がした。軽く整え、部屋の奥に押しやってから屏風で覆い隠す。
もう幾度も繰り返してきた動作だ。審神者にこの身体を賜ってから今日まで毎晩のように、もう幾年も。
「それに、俺以外に出来ることでもないだろう」
微笑んだ主の顔には深い皺があった。
この本丸でこの主に仕えて、もう幾年か。人の身は鋼に比べて、こんなにも儚い。
刀の寿命は長い。与えられた器ではまして。昼と夜の別さえあれば時を数える必要さえない。ただ本丸の審神者たる主だけが、刀の分まで請け負ったように時計の針を回してゆく。
主は老いた。
三日月宗近が縁側で茶を啜る間にも時は経ち、精悍だった主の顔は緩み、背は縮み、髪は白くなった。
本丸は戦の只中にある。老いて力の衰えた審神者をいつまでも据えてはおけない。据えておいたところで、敵に狙われるのは目に見えている。
だから代替わりをする、と審神者は言った。残る力を全て使って、新たな審神者を本丸に招くと。幽世と現世を繋ぐことに注力するため、またそれを敵に気取られぬため、これより代替わりが成るまでの間、審神者は本丸内に設けた結界の中で過ごすことになる。
三日月宗近が仰せつかったのは、一つには十全に機能しなくなる審神者の職務を近侍として補佐すること。もう一つには、結界内に審神者の住空間を整えること。
恐らくこれから本丸を去るまでの間、二度と出ることのない空間だ。
老いて力の衰えた人間が独りで過ごさねばならぬことも考えて、なるべく肉体に負担の少ないものをと苦慮した。役目とはいえ何の愉しみも無いのは味気なかろうと、中に置く物品の配置一つにまで気を配った。
頑張りすぎることはないと苦笑されたが、三日月宗近はこれに殊更力を入れた。何しろこれが終われば審神者は結界の向こうの存在になる。外敵はおろか刀剣男士にも触れることは叶わなくなる。実質これが、主に対して行える最後の奉仕なのだ。
出来上がった空間の真中に、審神者は静かに腰を下ろした。
三日月宗近は様子を確認するため、畳の縁ほど離れた位置から見守っている。広間に刀が集っている時には決して取らない距離である。
「では、結界を張るよ」
「うむ」
ぴん、と場が張り詰める感覚。一線のこちらとあちらに分かたれた感覚は少々切ないものがあるが、想像の範囲内だ。
まだ、目の前に主はいる。
「障りはないか、主」
「なさそうだ」
「そうか」
ひとまず安堵する。安堵しきれることはない。代替わりの時には結界の力が弱まるのだから、結界が無事に張れただけでは足りない。
一通り確認を終えた審神者が、手元の紐を操作した。結界の存在や強度を隠すために、中のものの存在そのものを隠すために、視覚的にも覆っておこうと言い出したのは審神者であった。三日月宗近にも、否やはなかった。主の無事が守られるのは、良いことなのだ。
少しずつ御簾が下りてゆく。少しずつ、主の姿が隠されてゆく。主が、三日月宗近の前から見えなくなる。
あ、と三日月宗近の唇から声が漏れた。
目を逸らし続けていた事実が、眼前にまざまざと突き付けられ始める。ああ、もうあの白くなった髪が見えない。いつも細められていた目が見えない。優しく笑んでいた口元が見えない。皺だらけの頸が見えない。
見えない。主が見えない。ただ御簾の一枚だけを隔てて、もう何処にも見えない。
「主」
思わず降りてゆく御簾に手を伸ばした。かし、と爪が竹を擦る。僅かばかり隙間が開く。だがその程度の隙では主の総身など到底見えない。
「三日月」
少し呆れたような主の声がする。
自身がどれほど焦がれた顔をしているのか、三日月宗近には分からない。理屈すらも分からない。主にも分かっては貰えぬだろう。
分かったところでどうしようもない。これは長い歴史に数多ある話の、たまさか掌に触れたひとひらに過ぎない。であれば、あるべきものをあるべきままに。それが使命であり、主の望みである。
ただその意識を心に縫い留めておくことだけが、三日月宗近には途方もなく難しい。
「三日月」
御簾の向こうから主が呼ぶ。
応えるために三日月宗近は御簾から身体を引き剝がし、膝一つ分後ろへ退げて、深々と頭を垂れた。
「お前はよく出来た近侍だから、教えるのを忘れてしまっていた。人はお前の言う通り儚く脆い生き物だが、お前が思っているほど弱くもない」
私にはまだ、為すべきことがあるからね。
表情のない言葉が三日月宗近の中に落ちた。
映画を見て思いついたネタなんですが多分映画を見ていなくても読めるので。