下原三丁目

声が止められない

 異国の海には魔の物が現れるという。それは美しい姿と声で船頭を惑わせ、梶を失った船はやがて水底へ沈んでゆく。もしこの日本にそのような業を持つものが居るとすれば、それはこの男ではあるまいかと、海より隔たる安土の地にありながら思われる。
 しどけなく褥に転がるその姿は、ただ美しい。
 作り物のような男である。
 そも、三日月宗近という名からして、作られた物を冠している。
 こちらに対する態度、対応、力量いずれも申し分ない。しかしその所作を何処で身に着けたものかは知れない。己のことを語らぬ故、生まれ育ちはおろか家柄や奉公先も詳らかでない。挙句の果てには此方に恩仇いずれを為す者かさえも図り難い。
 何より、これほど美しい人間を見たことがない。顔立ちや肌艶はおろか、髪の一筋、爪の先に至るまで、あらゆる部位が見目麗しく整っている。嫋やかではあるが柔弱ではなく、逞しくはあるが頑強ではない。女のように媚びず、男のように阿らぬ。凡そ世人が持ちうる全てのものを持ち、余人が持ちうる全てのものを持たぬ。それがこの男に関して漸く見定めた全てであった。
 魔であれ人であれ、得体は知れぬ。
 取り繕う物なき閨ならばまた見えるものもあるかと思うたが、さて。
 見る限り、美しさは欠片も損なわれていない。仄かに汗ばんだ白い肌は触れれば手に吸いつき、撫でれば僅かに粟立って悦楽を知らせる。熱の籠った息が緩く吐き出され、麝香のように薫る。言葉はないが、絡めた指で、舌で、控えめに乞う。至極の艶であった。
 滑り込んだ尻の間も、見上げる瞳と同じく潤んでこちらを誘っていた。この男が自らこちらを見つめることは多くない。更なる快楽を欲するのはどちらも同じことのようだ。望み通りくれてやるのも吝かではない、が。
「まだじゃ」
 入れたままの指で、意地悪く肚を弄る。男の眼が僅かに見開かれるのが分かった。
 昇り詰めるのは容易いが、今はこの男から少しでも多く何かを引き出したい。常ならず整いすましたこの男の牙城を崩す攻め口がないものか探りたい。
 ある一点を掠めた時、男が鋭く息を飲んだ。狙って突いてみると、吐息より他に漏らさなかった唇から上ずった高い声があがる。見上げていた瞳が僅かに逸らされて床へ落ちた。どうやらここが泣き所らしい。強弱緩急をつけて嬲ってやれば、声は途切れることなく溢れ続けた。
 多分に快悦を含んだ嬌声は、ひたすらに甘美であった。己が有様も、先立つ憂いをも、全てを忘れさせるかのような、澄んだ音であった。
 どうやらここが良い攻め口であると察しをつけ、ふと、妙なる調べを紡ぐその紡ぎ手の顔を見てやろうと思った。細い肩を掴んで床から剥がし、喜悦に濡れているであろう瞳を睨み穿ち、天上の音色を一身に浴びてやろうと思った。
 そうして目論見通り仰がせ覗き込んだその顔は、
 ――笑っていた。
 佳人。尤物。瑤台。双蛾眉上。紅裙烽火。――傾城。
 それは既に知る美しき笑みではなく、破顔したるうつくしき笑みでもなく、情愛を交わす契者の笑みですらない。ひたすら蠱惑的に美しく、宗近という男は笑っていた。
 桂男。
 化生なるもの。
 うっそりとこちらを睥睨して、宵空に浮かぶ月が笑う。
 之を取るに手に満たず、皓々たる光未だ舒びず。
 之を仰げば則ち眸に在り、繊々たる姿望みつべし。
 媚びはない。阿りもない。ただ笑う。ただ天上から静かに天主を見下ろして笑っている。此方を天へ招かんとするか、はたまた地の底へ墜とさんとするか。男の瞳からも、声からも、それは推し量れない。ただ、遥かなる高みの三日月だけがある。
「――おぬし」
 力なく落とされていた腕が持ち上がる。指を撫で、腕に触れ、肩に絡み、首筋をなぞる。
「この儂に天を攻めよと申すか」
 面白い。浮かびあがったものもまた笑みであった。
 指ではもどかしいとばかりに引き抜き、猛るもので奥まで貫き穿つ。一際高く声をあげ、衣の海に沈みながら男が笑う。白磁の肌を波打たせて跳ね、奇しき歌を奏でて笑う。天へ昇れ、地へ堕ちよと。
 声が波間に消えるにはまだかかりそうだった。

同人誌に再録済み。